ゴルフ を考える  Apr.2011

 

言い尽くされていることだが、『ゴルフ』とは何だろうと今更のように問えば、私なりに以下のように述べようと思う。

欧州はアングロサクソン民族の文化性から来るモラリズム思考がゴルフの根幹を支え、発展させた事を想えれば、それが基軸となる理念として『自分を自分で裁く』というゴルフのルールが持つ貴重な本質が見えてくるものである。その極めてシンプルな理念が、様々な自然の環境に溶け込まれたコースの中であるが故、数奇なドラマがあたかも自然のいたずらかのように生まれる事になる。つまり、人の心理を自然という環境が関わりながら揺さぶる事になる。

 

以下の文章が紛失されたので2025.07に追記文として内容を変更校正致します。

 

一つのゴルフボールをカップインさせる目的に向かいプレーヤーは同伴競技者と共にプレーする事でプレーヤーの人間的本性は様々な場面で試されることになる。自身のスコアーと仲間のスコアーに生じる駆け引きまでは良いが、それが目的のすべてになっては本来の意味や感じ取れる様々な余韻の様なものは薄れ、へんてこな感情に支配されるものとなる。

大自然にかもまれて自分のボールの行方のラッキーとアンラッキーに興じ、この前まで出来なかったショットが打てた時の快感に浸る。ロングパットが入ってしまったり、バンカーショットがピンそばについたりと、予期せぬ幸運が散々たるプレーの後にひょいと表れてくれる。それがゴルフを魅了してやまない体験ではないだろうか。

様々なプレーヤーがいる。年間100ラウンドを超える猛烈ゴルファーや年に5回と行かないゴルフ愛好家もいる。いろいろな経験の中にゴルフへの感じ方が存在し正解があるものではないが、コースをどう楽しむかで楽しさは変わってくるものと思う。

 

歴史的に考えれば、アメリカにゴルフが渡って高々200年ほど、日本では110年程、ゴルフの起源をたどれば500~600年である。ヨーロッパではゴルフは文化である。しかし日本では文化というレベルまでは達することがあるだろうか?ゴルフがスポーツという概念が邪魔をしているように感じる。ゴルフとはある意味どんなことがあろうとも許すという心の広さを重んじているように感じる。アンラッキーな状態が自然と対峙しているが故に生まれようがそれを受入れ、自分の手でそこに追い込んでしまったことに自分を許せる気持ちと、自然に八つ当たりしない寛大さが必要である。その反面、自分を裁けるだけの自制心と正直な人間性を持っていなければ決して楽しむことは出来ない。ズルをするとどこかでそれは自分に返ってくることは人間生きていれば、見て見ぬふりをしない限りすべての人間は心当たりがあることである。またさらに、同伴者との人間的な関係性を思いやりや紳士的な態度をそれらと同居させることが出来なければならないとゴルフは教えてくれる。それらの相関関係こそがゴルフが愛され止むことのない理由であり、文化として根ざすことのできる土台の様なものであろう。

スイング理論も大切である。道具の進化はゴルファーの楽しみの一つでもあるし、ゴルフ産業の生きるすべともいえる。優雅なホテル付リゾートコースは素晴らしい体験を与えてくれるし、一方でラウンドフィーの安いクラブはより身近にゴルフを楽しめる恰好な存在となる。様々な環境がゴルファーの周りにあり様々なニーズに合わせることが可能な現代といえる。

 

ゴルフは日本においては文化とはなり得ないのではないか?という自問において、文化とは何なのかという問いにもつながる。

日本において文化となっているものとは何か?思い浮かぶものとして『茶道』『弓道』はどうだろう。はたまた『仏教』『神道』などはどのように捉えるべきなのだろうか?宗教は別かもしれないが仏教が多くの人々の精神性に共鳴し『仏教文化』という体をなしてはいないだろうか?そう考えると一般人の私には判断が出来なくなる。

 

それを今更調べてみるとこう書いてある。『文化とは、ある社会や集団において共有される価値観、信念、行動様式、知識、芸術、宗教、法律、生活様式など、人間活動によって生み出されるものの総体』と定義づけされている。また、【文化と文明】となると、文化と文明はしばしば混同されるが、文明はより物質的な側面や普遍的な進歩を重視する傾向があり、文化は精神的な側面や固有性を重視する傾向があるようだ。【文化の役割】として文化は、人々の楽しみや感動、精神的な安らぎをもたらし、社会の連帯感を生むうえで重要な役割果たします。また、より質の高い経済活動や、科学技術の発展を支える基盤ともなります。などとAIは教えてくれています。

なるほどと納得もできる。

 

そういう認識の上に立てば、日本においては精神性の高い様々な『道(どう)』と称する文化性の高いものがある。ではなぜ私自身や幾人かのゴルフに精通する諸先輩方の中にある同意見とする、『日本においてゴルフは文化となり得ない』のか?端的に言えばゴルフに精神論が日本ではあまり重要視されておらず、語らい会うこともなく、ゴルフをそういった目でとらえるゴルフ人口の比率が欧米に比べ低いことに起因していると感じるからである。それはアジア全体にも言えるとも感じる。自身のスコアーがパー72のコースで100を切ったとかきれなかったとか、今日は70台で回れたとか、競技をするに満たないゴルフの腕前をもってスコアーが全てかの様な思考から離れることが出来なくなっている日本人ゴルファーのいかに多いこと。リンクスで生まれた欧米型のゴルフの殆どはマッチプレーが起源であり、グロスのスコアーなどは重視されていなかったと聞き伺う。そのリンクスコースの自然というものは地形に限らず、猛烈な風雨も付き物であり、過酷極まりなく何打打ったか分からなくなることもしばしば。ノーウウィンド・ノーゴルフという諺は晴天の中のゴルフを喜びとする日本人ゴルファーには到底想像が出来ないものといえる。その過酷な条件下において同伴者との精神的な掛け合いとか技術の出し合いの中でゴルフは長い年月の中で育まれたことにより、『文化』と称して恥じない誰もが認めるゴルフ界となったのではないかと思う

 

 

近代ゴルフはプロ競技の発展と共にスコアー重視の志向がゴルフ界全体を動かしてきてしまったと言える。これはあまり良い方向性ではないようにさえ感じる。要するに近年の日本における男子プロの低迷は技術の追求にばかり捕らわれ、精神性がおろそかとなり、ひいてはゴルファーそのものの魅力が薄らいだとも感じ取れる。精神的に多くのファンを魅了するプロゴルファーが育っていないのが日本の現状といえるのではないだろうか?一方、女子ゴルフ界は自己の自覚を促しファンとの交流や礼儀といったものを教育してゆくことが出来てきたからとも解釈できるところがある。

 

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